京都芸術大学 アートプロデュース学科

2020年度 奨励賞

生き方を「買う」

──ホストクラブにおける消費行動の意味──

田染 早都さん

📝要旨📝

昨今ホストクラブに足繁く通う女性たちは、「ホス狂」や「ホスト依存」という言葉で表されることが増えた。そう表現される女性たちが、ホストである男性に金銭を支払うホストクラブという場は、しばしば性の観点から語られることが多い。たとえば、木島由晶の「男らしさの装着──ホストクラブにおけるジェンダー・ディスプレイ」(2009)ではホストクラブで実際に働くことで、キャスト側からみたホストのジェンダーロールについて述べられており、志田雅美の「女性の主体性に関する一考察──『ホストクラブ』という場から」(2017)ではホストクラブに通っていた女性の実録から分析を行うことで、女性側のジェンダーロールについて述べている。ホストクラブを語るうえで性の観点を全く除外して考えることは不可能だろう。しかし、筆者が実際にホストクラブに足を運び、そこに通う女性達から話を聞いた経験からは、ホストクラブは性の側面だけでは語り切れない部分を持ち合わせているように思われた。そこで、本論文では性だけではない観点から考察を行うことで、そこでの売買の対象や、消費行動の意味を明らかにしていく。

そのため、まず第一章ではホストクラブの基本的な営業形態や、需要が高まり拡大している市場について紹介する。第二章では先述した木島と志田の先行研究を取り上げることで、ホストクラブが性の観点から語られることが多いこと、そこで売買されている「性」なるものが曖昧であることが分かった。また、ホストクラブと同じく「性の商品化」という観点から語られることの多い男性向け性風俗サービス業をテーマにした多田良子の論文「『エッチごっこ』に向かう男たち──性風俗利用における『対人感度』」を参照しつつ、性風俗産業を性だけではない観点から語ることができないかを探った。多田は、性風俗産業を利用する男性の求めるものが、身体的な接触を通じた性的な満足から対人的コミュニケーションを通じた精神的な癒し・ふれあいへと移り変わっていると論じている。つまり、ホストクラブよりも明確に性を扱っているはずの性風俗サービス業でさえ、性に限定されないコミュニケーションのようなものが商品として求められているのである。これらをふまえたうえで、性風俗サービス業よりも売買されているものが曖昧なホストクラブでは、性が主要な売買対象とはよりいえないことが導き出された。

第三章ではホストクラブに通う女性客5人を対象としたインタビュー調査の内容について記述し、第四章でそれらのインタビュー内容の分析を試みた。分析を通じて以下の4点を明確にすることができた。(1)ホストに通う女性客は自らの理想とする女性性(ジェンダーロール)のみを求めているわけではないこと、(2)女性客がホストおよびホストクラブに求めるものには一貫性がないこと、(3)ホストクラブにおいては、ホスト側と女性客側とでどちらが主体的であるとも言い切れないこと、(4)女性客の生き方の根幹部分をホストが決定していることの4つである。

最後の点について分析する際は、社会学者のアンソニー・ギデンズ(1938-)が提起した、伝統や自然などによって規定されることがなくなり、大量の情報の中から自らが何者であるかを選び取り続けなければならない「近代化における再帰性の問題」と関連づけながら考察を行った。その結果、女性たちはホストによって、仕事や住む場所、ひいては自分の立ち位置を決定しているようにみえ、それは再起的な近代を生きる彼女たちなりの手段であることが明らかとなった。

昨今「自分らしさ」や「本当の自分」という文言がメディアに多く取り上げられるようになった背景には、近代化における自己の不安定さが窺える。それらをふまえたうえで、ホストクラブに通う彼女たちの消費行動の意味は、自身で決定することを一旦放棄し、決定権をホストにゆだねることで自身の振る舞いや生き方を定めようとしていることであり、売買対象は自己決定権の代役であると示すことができた。加えて、ギデンズが近代化において重要としている、「嗜癖(アディクション)」。という観点からも彼女たちの行動の意味を考えてみた。夢中や中毒といった意味をもつ嗜癖(アディクション)は再帰的社会という状況においては、中止すれば強い不安感を抱くため反復的に行うルーティンのようなものであり、このプロセスはホストクラブに「行く」ではなく「通う」と彼女たちが表現する点にも通じるものがある。彼女たちにとってホストクラブは生活と切り離せない存在になっており、寧ろ生活の主軸がホストクラブになっている。これらもふまえることで、嗜癖(アディクション)の場としてのホストクラブという構図がみえてきた。 その結果、ホストクラブという場は自己の決定権を嗜癖という形でホスト側にゆだねることで、絶えず反省的・再起的に意思決定を迫られる近代化が高まった現代という時代を生き抜く手段の1つであると結論づける。