京都芸術大学 アートプロデュース学科

2021年度 奨励賞

宙吊りにされた人々

──新型コロナウイルスが明らかにした日本のいきぐるしさ──

島田貴弘さん
山下ゼミ

📝要旨📝

 本論文は、今日の日本社会における閉塞感の正体と、私たちの生(生命/生活)に対する支配的な価値観を明らかにした上で、それらに風穴をあける「共立」という在り方を提案する。
 2020 年、世界中に拡大した新型コロナウイルス感染症によるパンデミックという非常事態は、私たちを未経験の状況に投じたが、その実はそれ以前の日本社会の在りさまやしくみ、人々の価値観を露わにしたと筆者は考える。
 具体的な事例を見ると、東京都では、緊急事態宣言の発令に伴うネットカフェの休業によって数千人規模の人が路上生活者となった。それはつまり、コロナ以前から安全な住まいを持たない人が数千人おり、放置されてきたということでもある。また、コロナの感染拡大により収入源を失ったにも関わらず、国からの給付金の対象外だとされた性風俗業に従事する人たちの、困窮や職業差別についての議論がなされた。それはつまり、コロナ以前から性風俗業界では生活に困窮する女性が多く働いており、彼女たちにとってセーフティネットは福祉ではなく性風俗業界そのものであったのだ。
 日本政府がとった感染防止策は、国民に対し「自粛要請」という「自らの意志と判断で」自らを隔離するよう促すというものだった。憲法学・公法学者の大林啓吾は、『コロナの憲法学』において「自粛要請」の問題を、公権力の責任を個人に転嫁してしまう点だと指摘する。たとえ政府の要請に従おうとも、絶対的な安全や権利が保障されるということではない。2020 年 3 月からオリンピックが開催された 2021 年夏までで、「自宅療養」という名の政策によって、医療機関ではない場所で、適切な治療を受けられないという社会システムから見捨てられたまま亡くなっていった人は 800 人を越えた。
 新型コロナウイルスのパンデミックに際して明らかになったのは、今日の日本の社会システムはセーフティネットが極めて手薄に設定されており、人々の生(生命/生活)は簡単に危機に投げ込まれるという事実である。しかしこれは、コロナ禍によって生まれた危機ではなく、それ以前から準備されていた状況なのである。では、現代に生きる私たちはどのような社会に生きているのか。
 今日の私たちの生活の基盤となっている資本主義経済システムでは、私たちは常に生産力の高い、労働する主体でいることが求められている。哲学者ビョンチョル・ハンは、現代社会を「能力社会」と呼び、そこに生きる人々を、「自発的に」能力を発揮「し続けなければならない」疲労の中におり、それが果てしなく続く自己搾取の鎖に繋がれていると描写する。労働から離れる余暇の時間を生み出しても、そこでやりとりされるのは、ショッピングやサービスの享受など、資本主義を加速させる商品売買である。
 今日、心身の「健康」は、自己の能力を十全に発揮するための必須条件である。私たちの「健康」は個々人を管理する国家や共同体にとっての生産性や効率の優劣という価値観に取り込まれてしまっている。哲学者ミシェル・フーコーはこうした、近代以降の生きている人間をどう扱い、よりよい労働者を生み出すかを主題とする政治形態を「生=政治」と呼ぶ。私たちが「健康」でありたいと願うその思想は、生産性を求める資本主義社会のしくみによって支配されているのだ。
 他方、アメリカの調査会社(Pew Research Center)が 2007 年に実地した国際世論調査によれば、「政府は自活できない貧困者の面倒をみるべきだ」という質問に対し、日本は「絶対賛成」が 15%、「ほぼ賛成」が44%、あわせて 59% という、調査対象 47 カ国のうち最低数値をはじき出した。また、OECD(経済協力開発機構)が発表した「社会的孤立」に関する国際調査では、友人、職場の同僚、その他社会的団体の人々(協会、スポーツクラブなど)との交流が、「全くない」あるいは「ほとんどない」と答えた人の割合が、加盟国 20 カ国のうち日本が 15.3% ともっとも高かった。つまり、現代日本社会は、貧困を自己責任だとし、困窮しても政府による救済にあずかるべきではないと考える人が多く、さらに人との交流がないために困窮者は見えない存在となってしまう。
 以上、本論文では、日本の生活保障制度の不足や、自発的に働き続けなければならない「能力社会」、生産性と直結した「健康」思想、自己責任の圧力、コミュニティへの関心の低さといった日本社会の在りさまやしくみ、人々の価値観を確認した。今日、私たちは自ら能力を発揮し、自らモチベーションを維持し、自立を求められ、「健康」を維持しつづけなければならない社会にいる。しかしここに存在するのは孤立した個々人なのだ。
 筆者は、生産や消費の枠組みから距離をとり、義務や競争に回収されない「活動」の在り方を「共立」と呼び、現代社会を生きる私たちの閉塞感を打ち破る方法として提唱する。「共に立つ」とは、他者によりかかり依存することではなく、自分の外側を想像し理解しようとすることであると考える。自らの掌に自らの生(生命/生活)を握っているというのは、自分ひとりで自分のみを生かすことだけでなく、自分のなかの限られた余裕を他者に使うことができる状態である。自分ひとりで立つのは気楽だが、それは何にも守られていないことを意味する。他者とともに立つことは大変だが、それは私たちの生を守るものになる。