2024年度 学長賞
失われた右手、残された左手
『この世界の片隅に』における両手の象徴性
- 秋本 麻帆さん
- 林田ゼミ
📝要旨📝
こうの史代の漫画『この世界の片隅に』(双葉社、2008年〈上巻〉〈中巻〉、2009年〈下巻〉)は、太平洋戦争下の広島と呉を舞台に、主人公・すずの生きる日々を描いた作品である。細やかな日常描写や、街を焼き尽くし多くの命を奪う戦争被害の描写は、綿密な取材と考証に基づいて描かれており、作品に深い実在感を与えている。幼少期から絵を描くことが得意だったすずは、嫁ぎ先の呉でも絵を描くことを通して人と繋がり自分なりの居場所を見つけていく。しかし、物語の後半ですずは時限爆弾の爆発に巻き込まれて右手を失い、絵を描く手段を奪われてしまう。この喪失を境に、作中の背景はすずの心象を映し出すかのように、歪な描線で描かれるようになる。一方、失われた右手はその後、すずの意識と切り離された幻のような存在となって再び作品内に登場し、すずが知り得ない他者の記憶や想像世界までもを漫画の紙面上に描き出していくことになる。日常と戦争被害を現実的に細やかに描いてきた本作において、この幻の右手の非現実的な描写は異質な存在感を放っている。
これまでの研究において、幻の右手は「過去と現在」「あの世とこの世」「現実と虚構」などの境界を超えて、失われたものや人々の記憶を呼び起こし共有する「媒介者」のような存在であると解釈されてきた。例えば、細馬宏通は著書『二つの『この世界の片隅に』——マンガ、アニメーションの声と動作——』(青土社、2017年)において、幻の右手が絵を描く際に用いている道具に着目している。すずがそれまで絵を描く際に使ってきた様々な道具は、すずの「描く」ことに関する記憶、つまり、すずが絵を描いて誰かに見せた経験やその相手との記憶に密接に結びついている。しかし、それらの道具は戦闘機による攻撃で失われてしまう。そして、失われた幻の右手が漫画のコマ枠の外から現れると、これらの失われた道具を使って絵を描く様子が描かれる。このように、幻の右手は道具を介して失われたものや人々の記憶を蘇らせる役割を担っていると細馬は指摘する。また、中田健太郎は『ユリイカ(「特集*こうの史代」)』(2016年11月号、青土社、2016年)所収の論考「世界が混線する語り」において、幻の右手による介入によって、漫画の描き手である作者であるこうのの主観と作中の登場人物の視点が混ざり合うような語り口が作品内に生まれていると述べている。作者と登場人物が重なり合うような右手の語りによって、物語の中の現実世界(読者にとっての虚構世界)と右手が描く想像世界、そして物語の外にある現実世界が混線し、接続されているのだと中田は指摘する。 このように、右手の象徴性や役割について多様な議論が行われてきた一方で、すずの残された左手の存在については、これまで十分に注目されてこなかった。しかし、右手を失い左手のみで生きることになったすずが「まるで左手で描いたような」と表現するような世界の中で生き続ける点、そして実際にすずが生きる世界である背景の絵が歪んだ線で描かれていることを考えると、左手こそが喪失後のすずを象徴する重要な存在だと考えることができるのではないだろうか。そこで本論文では、「幻の右手」と対照的な存在である、すずの「残された左手」にも注目し、その存在がどのように喪失を抱えながら生きるすずの姿を反映しているのかを考察する。第一章では、すずが右手を失う第33回以降に展開される、すずの想像世界やモノローグの描写から、右手を失ったすずが、生存者としての罪悪感と喪失感を抱え、自分の居場所を見出せずにいることを確認する。そして、すずが右手の喪失に直面する第35回の場面を取り上げ、すずにとって右手は彼女が生きてきた過去を象徴する存在であることを明らかにする。第二章では、右手の喪失によって背景の描線が「左手で描かれたように」歪んで描かれるようになる点に注目し、左手が喪失と痛みを抱えながらも生き続けなければならないすずの現在の姿を象徴する存在であると論じる。そして、泉信行の著書『漫画をめくる冒険』(下巻)(ピアノ・ファイア・パブリケーション、2009年)を手がかりに、漫画における「右/左」の方向性が生む視線力学に注目し、右手と左手の存在によって過去と現在が乖離するような状況が生まれていることを指摘する。第三章では、最終回の「しあはせの手紙」を取り上げ、幻の右手が描く登場人物たちの記憶や手紙の文字、最後に描かれるカラーのページに注目する。そして、失われた人々の存在や過去の記憶を象徴する右手と、現在のすずの喪失と痛みを象徴する左手が重なり合うようにして世界に色彩が加えられることから、右手と左手の融合によって、すずの世界に未来への希望が表現されていることを明らかにする。終章では『この世界の片隅に』が、喪失による傷を抱えながらも、それを受け入れつつ未来へ歩み出す人間の強さと再生の可能性を、右手と左手それぞれの役割と交錯によって描き出していると結論づける。