京都芸術大学 アートプロデュース学科

2024年度 優秀賞

「奥能登国際芸術祭」がもたらした新しい〈交換〉の兆し

柄谷行人『力と交換様式』から考察する

米谷 璃音さん
山下ゼミ

📝要旨📝

本論は、石川県珠洲市で開催された「奥能登国際芸術祭」で生じた、住民と市外から訪れた人々(アーティスト、来場者を含む。以下、来訪者)の関係を、2024年1月1日に起きた能登半島地震を踏まえて考察することが目的である。筆者は、「奥能登国際芸術祭」に関与した来訪者が、地震発生後に被災地となった珠洲市を訪れ、市民と関わる活動を行っていることを知り、なぜ来訪者が自身の利益にならない行動をとるのか疑問に思った。筆者は、同じく震災を経験した「大地の芸術祭」を調べる中で〈交換〉というキーワードを用いることで住民と来訪者の関係、ひいてはアートの領域を越えた地域芸術祭の意義や本質的な価値を考えることができると考えた。

 本論文では、哲学者の柄谷行人(1941-)が執筆した『力と交換様式』(岩波書店、2022年)を参考に考察と現場での取材を重ねた。柄谷は〈交換様式〉が人間の行動や社会の在り方を決定しているとし、4つの段階で説明している。まず、最も古い交換様式として、贈り物を必ず与え、必ず受け取り、必ず返す=A「互酬(贈与と返礼)」があり、次いで国家が民衆を服従させ税を徴収すると同時に民衆を保護する=B「服従と保護(略取と再分配)」、貨幣を支払えば支払った分の対価として商品を手にすることができる=C「商品交換(貨幣と商品)」という現在の国家および貨幣経済の社会の在り方を示した。さらに、柄谷は、BやCが行き詰まった先に訪れる=D「高次元でのAの回復」の到来を予見している。

 筆者は特にA「互酬(贈与と返礼)」、D「高次元でのAの回復」に注目した。つまり、「奥能登国際芸術祭」を通して、まず住民からアーティストや来訪者に何らかの働きかけ(=贈与)があり、それが震災後の珠洲市及び住人のために彼らが行動を起こす要因(=返礼)となっていると推測した。さらに、震災という大きな出来事を経た珠洲市で、通常のA「互酬(贈与と返礼)」を超えたD「高次元でのAの回復」が起きているのではないかと仮定した。

 それを立証するため、まず、珠洲市で開催されている「祭」を現地の高齢者らから聞き取り調査し、中でも各家庭で親戚や知人、仕事関係者などを招待し、祭の日のために用意したご馳走でもてなす風習「ヨバレ」と、田の神に豊穣の祈りと感謝を捧げる農耕儀礼「あえのこと」が、A「互酬(贈与と返礼)」に当てはまるとした。また、A「互酬(贈与と返礼)」は、「祭」という特別な場だけでなく、お裾分けなど住民の普段の生活でも行われていることを明らかにした。さらに、「ヨバレ」には、他所からの来訪者も歓待されるなど、珠洲市では贈与が幅広く行われていることを確認した。

 続いて、過疎が進む珠洲市の現状と、2017年から2024年までに3回開催された「奥能登国際芸術祭」の概要を述べた。芸術祭の作品制作レポートから、アーティストたちは珠洲市での制作の際に、住民からお裾分けや技術的・精神的なサポートといった「贈与」と住民の気質や土地の文化を受け取り、その返礼として作品制作に注力するという行動を起こしていることを確かめた。彼らがつくる現代アート作品は、住民に馴染みのないものである。つまり相手には「わからないもの」をアーティストは「返礼」し、住民は受け取るという新たな〈交換〉が生まれていたことを確認した。

 以上を踏まえて、2024年1月1日に起こった能登半島地震を経てアーティストや来訪者がどのような行動を起こしたのかを知るため、珠洲市で銭湯を営む新谷健太さん(1991-)にインタビューを行った。新谷さんは2017年に珠洲市に移住し、現在は来訪者の滞在・活動拠点として銭湯を開放するなど住民と来訪者をつなぐ位置にいる人物である。新谷さんは、震災後に芸術祭で珠洲市に関わりを持ったアーティストやボランティアなどの来訪者が、被災地となった珠洲市を訪れていることを語ってくれた。彼らは、早期の瓦礫撤去などの復旧活動から珠洲市の現在を他地域へ伝える活動や、作品を用いたワークショップやプロジェクトなどを行っていた。さらに、彼らは珠洲市と来訪者を繋ぎ、芸術祭には来ていない、より外側の人々と珠洲市を繋ぐさまざまな活動をしていることを確認した。

 終章では、もともとは住民同士の閉ざされたA「互酬(贈与と返礼)」から、「奥能登国際芸術祭」を契機に来訪者が加わった開かれたA「互酬(贈与と返礼)」に変化したこと、震災後もこのA「互酬(贈与と返礼)」の経験が来訪者を珠洲市に引き寄せていたと考察した。さらに、震災と豪雨による被害を受けた珠洲市には、A「互酬(贈与と返礼)」には収まりきらない、お互いに配慮し合う「ケア」の〈交換〉が起こっていることを確認し、この「ケア」の〈交換〉がD「高次元での互酬の回復」の予兆である可能性を示して本論の結論とした。

参考文献

・柄谷行人『力と交換様式』岩波書店、2022年

・雑誌「特集「ケアの思想とアート」」『美術手帖』2月号、株式会社美術出版社、2022年