2024年度 奨励賞
言葉の世界と邂逅する
山尾悠子文学における滅亡と創造の詩学
- 星野 友香さん
- 林田ゼミ
📝要旨📝
山尾悠子(1955-)は日本の幻想文学作家の一人である。その作品群は天使や人魚、怪物や悪魔といった人智を超えた超自然的な存在との邂逅と交わりや、詩的で硬質な文章によって描き出される架空世界の劇的な滅亡などを主な特徴としている。他の文学作品に類をみないその特異な作風の数々に文学界から多くの賛辞を送られていたが、1985年に発表された短篇作以降、結婚や子育てなど生活上の都合により作品の執筆が一時途絶した。しかし十数年の経過の後、2001年に国書刊行会から全集『山尾悠子作品集成』(国書刊行会、2001年)が上梓される。これを区切りに復活した山尾は再び精力的に執筆を続け、2018年に刊行された連作長篇『飛ぶ孔雀』(文藝春秋、2018年)では、第46回泉鏡花文学賞、第39回日本SF大賞、第69回芸術選奨文部科学大臣賞と複数の文学賞を同時に受賞し大きな話題となった。現在でも過去の作品の再編を中心に活躍している作家である。山尾は休筆している期間が長かったこともあり、当時の熱心な読者や批評家達からはしばしば「不世出の幻の作家」「伝説の作家」と称されてきた。故に現在において彼女の作品を学術的に位置づける試みは、その稀少性ゆえに十分に展開されてきたとは言い難い。そのため多くの称賛の声と反する形で、山尾文学の本質や価値を学術的な観点から考察した言論は未だ乏しい状況にあると言える。では、こと現代において文学批評、とりわけ〈幻想文学〉とされるものの周縁において「幻想文学の極北」とまで称された山尾悠子の作品が改めて文学的潮流の中で位置づけられるとするならば、そこから浮かび上がるその文学的な価値とは一体どのようなものだろうか。
本論文では山尾悠子の文学作品における独自の〈幻想性〉を解明することを主眼とし、山尾の作品が従来の幻想文学の枠組みをどのように超え、新たな文学的地平を切り開いているかを論じることを目的とする。具体的には、山尾悠子の作品が持つ幻想的な言語表現や物語構造を詳細に分析し、それが読者に対してどのような認識や感覚を喚起するかを探求する。
第一章では山尾悠子の〈幻想〉を解明する為の手がかりを掴むことを目的とし、山尾作品における物語世界がどのようにして構築され、我々の眼前へと描き出されているのかを探求する。ここでは山尾の代表的な初期作品から「夢の棲む街」と「遠近法」、及び「遠近法・補遺」を例に取り上げ、山尾悠子独自の表現手法が成立するまでの経緯を山尾自身が記した随筆集と共に作品本文も引用しながら示した上で、特徴的な要素を焦点化し、その独自性を分析する。そこから、山尾悠子の作品には言語で緻密に構築された架空世界がその〈詩的言語〉を用いて〈視覚性〉が前掲化されていることを明らかにする。第二章では、第一章で明らかにした諸要素を読解する試みとして、ジャンルとしての幻想文学について体系的に論じたツヴェタン・トドロフ(Tzvetan Todorov, 1939-2017)とローズマリー・ジャクソン(Rosemary Jackson, 1948-)の提唱した既存の理論を取り上げる。従来なされてきた幻想文学論の枠組みからトドロフの「ためらい」の概念やジャクソンの「転覆としての幻想文学」の視点を参考にしつつ、山尾の作品がどの部分に該当するのか、また、そこから超克している要素があるならば、それは如何なる特徴であるのかを探究する。これにより、山尾悠子の文学作品が持つ独自の幻想表現の意義を理論的に補強した上で、トドロフとジャクソンの理論を参照するのみでは山尾悠子の幻想性についての読解には不足点が残ることを示す。そして続く第三章では、前章の議論を踏まえた上で、山尾が繰る幻想の〈詩的言語〉と〈視覚性〉をどのように解釈することが妥当であるか、雑誌『夜想#山尾悠子』(ステュディオ・パラボリカ、2021年)に掲載された、山尾悠子の文章表現と物語構成について見解を述べている谷崎由依と吉田恭子の評論を引用し、そこから〈場の幻想〉と〈現実と異世界との翻訳言語〉と呼べる二つの鍵となる概念が含まれていることを述べる。そしてそれら諸要素はアリストテレスの『詩学』を用いて説明可能であり、幻想文学論だけではなく詩学的観点の応用が山尾悠子の諸作品の読解に重要な視点であることを主張する。こうした議論から明らかになるのは、山尾作品における言葉に立脚した幻想性の本質は単に非現実の世界を描くためのものではなく、黙示録的な滅びと再生の物語により、人間の認識において失われた原初の啓示的体験を想起させる重要な実践であるという点である。それは、人文科学と自然科学、さらには日常的現実と精神的幻想の狭間に立ちながら、言葉が持つ魔力で形而上的に高次な境界への越境を果たしている。これにより山尾悠子の小説は文学という領域を超え、その〈詩性〉によって創造の世界が齎す新たな可能性を示しているのだ。