2025年度 奨励賞
「だいたい」という余白
藤野可織『爪と目』における親密な他者
- 永吉 透子さん
- 林田ゼミ
📝要旨📝
藤野可織(1980-)の短編小説「爪と目」は2013年に雑誌『新潮』(新潮社)に掲載され、同年に同社から刊行された短編集に収録された。あらすじはこうだ。三歳の女児は単身赴任の父親と離れ、母親と二人で生活していたが、母親のベランダでの死をきっかけに、父親と再び同じ家に住むことになる。父親は急遽不倫相手であった女性を継母として新居に迎え入れ、三人で生活を始める。生活が始まってすぐはそれぞれ問題を抱えており、女児は母親が死んだ場所であるベランダに近付けず、父親は継母とは別の女性と不倫し、継母も同じく別の男性と不倫する。しかし、新たな生活をきっかけに三人はそれぞれに変化していく。変化の中で、女児と継母の距離は精神的にも物理的にも縮まることになるが、継母は自身の事情を理由に女児を傷つけるような行動に出る。女児をベランダに閉じ込め、齧って尖らせた爪にやすりをかけ、マニキュアを塗った。最後には、女児が継母の眼球に乾いたマニキュアの薄片を載せる、という出来事が起こり、物語は女児と継母が「あとはだいたい、おなじ」であると括られる。
あらすじからもわかるように、本書は読者にとっても女児にとっても、ひどく閉塞感のある物語である。だが、読了後に受ける印象は閉塞感だけではない。そこには不気味さとでも言うべき違和感が感得されるのである。
先行研究を紐解いてみるならば筆者と同じように違和感を覚えるという論者は少なくない。大竹昭子は「主人公は視覚である——藤野可織「爪と目」論」(『新潮』11月号、新潮社、2013年)において「ほかでは味わったことのない奇妙な感覚」、小川洋子は芥川賞の選評の中で「弱者であるはずの“わたし”は、少しずつ“あなた”を上回る不気味さで彼女を支配しはじめる」(「芥川賞選評」(『文藝春秋』第91巻第10号、文藝春秋、2013年)と評する。多くの論者は、小川が述べているように本作から受ける印象、違和感を不気味さという言葉で記述している。また、その由来は、二人称を用いた話法にあると述べられているのだ。本作は語り手である女児「わたし」が継母に「あなた」と語りかける形で物語を展開していく。これは一般に二人称小説と称される話法であり、本作の特徴である。
この話法による効果として、円城塔は「レンズのむこう——藤野可織の小説について」(『文學界』2013年9月号)の中で読者である私たちが語りかけられているように錯覚すること、松本和也は「《批評》藤野可織「爪と目」の話法」(『ゲストハウス』7、信州大学人文学部人文学科松本和也研究室、2015年)の中で語り手が常識に反するほどの特権を所持し、偏在することを挙げ、その効果として不気味さが立ち上ってくると論じている。
ここで語られている通り、読者が感じる不気味さは錯覚させる語りの偏在や立場に見合わない特権にあると考えられる。これらの話法は「爪と目」を語るためには欠かすことのできないものであり、話法を取り除く場合には不気味さも共に払拭可能であると想像できる。しかし、私の感じた違和感は不気味さでのみ説明できるものではなかった。物語に由来する閉塞感、話法に由来する不気味さのほかに、本作には欠かせない要素があるように感じられてならないのである。
本論では先行研究で語られてきた不気味さの由来である話法に着目しながら、それだけでは説明できない違和感について、それが何に由来するのかを明らかにする。このような考察を通じて、この「爪と目」という小説が何を描こうとしているのかについて肉薄していく。
第一章では先行研究を参照しながら本作が二人称小説であることを共有し、これまでに述べられてきた不気味さが二人称小説という話法に由来することを確認する。第二章では本作で使用される二人称詞「あなた」という語に着目し、先行研究を手掛かりにして「あなた」という語が持つ意味や作用を分析し、話し手と聞き手の立場や文脈によって心的距離感における遠近の両方を表現できる語であることを明らかにする。第三章ではこれらを踏まえて作品に立ち返り、この小説の違和感とは、論者によって不気味と語られる否定的な要素の他に相反する肯定的な要素を感じる部分にあり、それは本小説の二人称として用いられる「あなた」という語が持つ親密さと疎外感の意味作用に由来するものであること、こうした工夫を通じて本作は人間関係における感情の複雑さを描こうとしていると主張する。「おわりに」では、「あなた」という語の意味の揺らぎを通じて、言葉の意味がコミュニティや会話の中で定義されていくものであることについて論じるとともに、筆者は本論文の読み手である「あなた」に親密さを持って語りかけ、あなたの属しているコミュニティに対する姿勢を問い直し、論を締めくくる。


