京都芸術大学 アートプロデュース学科

2018年度 奨励賞

日本国憲法(大日本帝国憲法)『再定』論

金森 一晃さん

📝要旨📝

日本国憲法は、その誕生(1946年11月3日公布、翌年5月3日施行)から70年以上が経過している。「国民主権(民主主義)」「平和主義(戦争の放棄)」「基本的人権の尊重」を掲げるこの憲法は平和憲法とも呼ばれる。

日本国憲法が誕生したのは第二次世界大戦終了後の1946年(昭和21年)である。当時の日本は「敗戦直後」「GHQ (連合国軍総司令部)の占領下」「天皇主権」という今からは想像し難い複雑な状況に置かれていた。この最中、日本国憲法は起草・制定された。

日本国憲法を巡る議論は、誕生から幾度となく続いている。近年では、2005年に与党の自由民主党が第一次の改正素案を発表した。一度、民主党による政権交代を挟むが、自由民主党が再び与党となり、2012年には自由民主党・憲法改正推進本部によって日本国憲法改正草案が発表されている。また、2010年の時点で国民投票法が施行されており憲法改正原案の提出及び憲法改正国民投票の実施が可能となっている。

2015年には「我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案」、所謂、安保法案が可決され、これまでは憲法によって認められていなかった集団的自衛権の行使が可能となった。これまでの憲法解釈を大きく変え、解釈改憲と言われるこの一連の行為には、憲法学者が異を唱え「立憲主義」の崩壊を危険視する声も上がっている。そして、現在、安倍政権による憲法改正が進められようとしている。

本論文の目的は、この日本国憲法に纏わる議論に「再定」という概念を投げかけることにある。「再定」とは何か具体的に言えば「日本国憲法を現行の内容のまま国民投票に掛ける」ことである。憲法改正の国民投票ではなく、純粋に日本国民に今の日本国憲法そのものに対して可否を問うのである。

「再定」が必要な理由は、現在日本国で有効なものとされている日本国憲法が掲げる国民主権が不安定な状態にあるからだ。日本国憲法は誕生して以来、その主権者であるはずの国民から決定を得ていない。さらに言うならば、ポツダム宣言受諾後、かつての天皇主権から国民主権への移行そのものが完全に行われていないのである。日本国憲法の改正議論が行われるのは結構なことだ。しかし、それ以前に日本国憲法の基盤、国民主権そのものを確固たるものとする必要があるのだ。

まず、主権の所在について、日本はそもそも、日本国憲法が制定されるまで主権者は天皇であった。そして、ポツダム宣言の受諾によって、天皇主権ではなくなり、日本国憲法が制定されて国民主権となった、というのが通説である。

しかし、日本国憲法のきっかけとなるポツダム宣言の受諾は大日本帝国憲法下に行われており、決定したのは天皇と当時の日本政府である。また、日本国憲法が制定された当時、日本国はGHQによる占領統治下にあった。日本国憲法を起草・制定したのは、昭和天皇であるとも、当時の日本政府だとも、GHQとも言える。戦後直後であり国民が憲法について考える余裕もなかったと考えられる。GHQの日本国憲法において主権者とされる日本国民ではないのだ。

さらに、日本国憲法無効論の存在がある。1つは、GHQによる占領統治中、日本に主権が存在していない状態で制定された日本国憲法は占領法であり無効だ、というものである。もう1つは、ポツダム宣言の受諾及び日本国憲法の制定を、大日本帝国憲法第三十一条による、非常時の天皇大権の発動だ、とするものだ。あくまでも、大日本帝国憲法下で日本国憲法が有効となっているのに過ぎないということだ。この無効論から、日本国憲法の存在基盤が日本国民にあると言い難いと判明した。

日本は国民主権でありながら、天皇主権ではないと言い切れない状態にあるのだ。これは大日本帝国憲法を改正し日本国憲法を制定した過程において、国民の意思表明を怠ったことにより発生した現象である。

本論文が「再定」として提唱する国民投票に通じるものである。

日本国憲法を見つめ直すことで、今の日本国憲法の主権者とされる国民がその主権者と完全に言い切れるものではないということが明らかになった。国民主権は不確完全なものだったのだ。

私は憲法の改正議論において第九条をどうするかという話をしたいのでも、日本国憲法が無効だと言いたいのでもない。私が生きる日本において、最高法規とされている日本国憲法の力の根拠が、日本国憲法の条文上では国民だと掲げられているのにもかかわらず、その根拠である国民の意思が不透明なことに違和感を持っているのだ。その真相がどうであれ、自国の最高法規である憲法に無効論が存在すること自体に違和感があるのだ。そして私自身、本論文を書き始めるまでこれに何の違和感も持っていなかったということに恐怖を覚える。いつの間にか与えられていた主権を知らず知らずの内に、何の責任や実感を持つことなく生きていたのだ。

日本の、日本国憲法下において、国民主権である以上、その責任は私達日本国民一人ひとりが持つべきである。でなければ、もし、その時の権力者と呼ばれる人が、人類、地球、私達が生きるこの世界にとって取り返しのつかないことを行おうとしている時、それを止めることも、責任を持つことも、咎めることもできなくなるのだ。

権利には責任が伴う。自分がやったことの責任は自分にある、当たり前のことなのだ。

この論文を書く私個人のきっかけは「自分って日本国憲法のある、日本に住んでいるのに、日本国憲法の制定には何も関わっていないし、責任も感じていない。生まれた時には既にあったし当たり前のものだった。」という想いと「自分で決めてもいない日本国憲法に縛られているとも、その美味しい部分を何も考えず受け入れてるとも言えるのって何か嫌だな」というものだ。この違和感と嫌だなという気持ちについて考えていると、日本国憲法誕生のお話に行き着いたのだ。ある意味、私の心の中で起きていたことと、日本国民と日本の憲法の中で起きていたことは似ているのかもしれない。

もうすぐ、30年続いてきた平成が終わる。私達は時代の節目にいる。

本論文で掲げた日本国憲法「再定」とは、行方が有耶無耶となっている自分達の主権に向き合うと共に、未来に向け、自分達の権利を自分達の責任で決定するということだ。