京都芸術大学 アートプロデュース学科

2018年度 奨励賞

信頼のレッスン

──関係の固定化をときほぐす、共同体からの一時的な離脱としての観光客的振る舞い──

原田 遊歩さん

📝要旨📝

本論文は、共同体内での関係の固定化が起こる要因を明らかにし、その上で関係の固定化への執着を薄めるための手段の検討を目的とする。そのために、社会心理学者である山岸俊男(1948-2018)が提唱した信頼概念の分析における「信頼と安心の区分」、そして哲学者の東浩紀(1971-)による「観光客」という存在の捉え直しからみる観光客的姿勢の意義の検討、この2つの先行研究を本論文の軸としている。

私たちは日常生活において様々な他者と出会い、その相手ごとに異なる関係性を作り上げている。そして家族、学校、職場など、それぞれの場所を居場所とし、その中における自らの立ち位置を見つけていくこととなる。筆者は、このような共に関係性を作り上げる者同士の集まりである共同体のあり方について、「同じ共同体に所属する者同士が、その共同体内におけるルールのもと、互いが互いをよく知っているという思い込みを持つことで、その関係性に自らを埋め込み、さらにそこから抜け出しにくくさせているのではないか」という疑問を持ち、本論文を執筆した。

山岸は、私たちが普段何気なく使っている信頼という概念を取り上げ、日本において信頼が安心と同じ意味で使われている、あるいは混同されていることを指摘している。    

山岸の指摘する安心とは、社会的不確実性(相手の意図についての情報が必要とされながら、その情報が不足している状態を最小限にとどめ、相手のこちらに対する振る舞いがある程度予測できる状態が維持されている場合)を指す。さらに山岸は、相互関係において安心が共有される過程を「針千本マシン」という独自の例えを用いて説明している。針千本マシンは、ある関係のなかに存在する「お互い様」という互酬性の規範(ルール)を表している。その規範をもし破れば、破った側の身体に埋め込まれた針千本マシンから針が流れ、痛い目をみるのである。つまり、規範を破るという安心の維持を脅かす行為は、その本人にとって不利益となるのだ。安心を基盤とする共同体において、所属する者が規範を守り合うのは、「相手に裏切られて損をする」という自分自身にもたらされるリスクへの恐れがあるからなのだ。

また、この安心を共有する者同士では、共通の規範を守り合うことで関係の維持をし続け、社会的不確実性にさらされる機会を減らそうとすると山岸は述べる。つまり、関係の固定化が起こるのである。

一方で、社会的不確実性の大きな状況を避け安心し続けることは、共同体の外の他者から受け取れるかもしれない情報をはじめから受け付けない姿勢を取ることでもある。山岸は、社会的不確実性の大きな他者に対しても、相手自身や自分との関係性から「信頼するか否か」という判断をすることが重要であると主張する。

しかし、私たちは自身が判断しなくても安心を共有している共同体に慣れ親しんでおり、社会的不確実性の高い場合に他者を信頼するという選択を持つことは、非常にハードルが高く、固定化して関係の中に留まろうとする。では、安心を共有しない他者への信頼を個々人が持ち、共同体における関係の固定化を緩めるためは、どのような手立てがあるだろうか。筆者は本論の後半で、東による「他者との想定外の接続を招く観光客的姿勢」をもとに検討を行った。

東は、慣れ親しんだ環境から一時的に離れ、また戻ってくるという観光客の行動の枠組みに注目している。そして、自らを取り囲む環境を変えることで日頃過ごしている環境で得られる強いつながりとは異なる、他者との弱いつながりが得られるとした。この、弱いつながりを東は「誤配」を手に入れる振る舞いと述べている。苦労をして目的を達成する旅人と比べ、観光客という足取りの軽さを伴った移動を行う存在は、かつては劣った存在として論じられることも少なくなかった。しかし、東はその気軽さ、気楽さをもってこそ想定外の接続を得られるとし、普段の慣れ親しんだ環境での居心地の良さから離れることで、自分と環境との間に起こる「ずれ」を経験できると述べた。

 以上を踏まえ筆者は、山岸の提示した安心を共有していない他者に対して「信頼する」選択を持つきっかけとして、東による観光客的姿勢が有効なのではないかと考えた。

どの共同体でも関係の固定化は起こり、安心の維持なしに日々の生活をすることは困難である。しかし、自らを取り囲む安心の維持の関係から一時的に離脱をし、観光客的姿勢を取りいれることで、安心の共同体の外側での他者と相互関係(想定外の接続)が可能となる。そして、観光客的姿勢を通じて自らが行っている安心の維持、つまり自分が不利益にならないためにお互いに規範を守るという態度を俯瞰して捉えられるようになるのではないだろうか。また、この安心の維持への一歩引いたまなざしは、関係の固定化の要因を顧みるきっかけとなるのではないだろうか。

このような疑問を持つきっかけとなったのは、大学3年次、鳥取県でのゲストハウス住み込みへルパーの経験をしたことにある。大学生活の基盤となっていた京都での生活を離れ、慣れ親しんだ環境ではない場所に身を置く。もちろん、私もそこで出会う人々のことを何も知らないし、相手も私のことを知らない。そのため、「部外者」的存在としての役割を持つこととなったのである。この経験は、居場所が一時的に変わったという些細な出来事だったのだが、筆者にとっては異なる環境に身を置く経験を通して「いつもの居場所」について考えるきっかけとなる出来事でもあった。

互いの関係が強化されれば、共同体を共に構成する者同士の結束力が高まり、互いの働きかけが積み重なりやすくなる。このような、共同体のプラスの側面と紙一重にあるのが、「関係の固定化」であると筆者は考える。そして、円滑な人間関係を維持させるという役割をそれぞれが担うことで、ある瞬間で「維持させない」行為を行うことがその共同体にとって不利益なものとして捉えられる可能性を持ち合わせているという「関係の固定化」をもたらす共同体の側面にも目を向けていく必要があるのではないか。

自らの身を置く環境やそこでの相互関係のあり方に対して何らかのしがらみや違和感を感じたとき、本論文がそのしがらみや違和感を切り捨てるのではなく、そのように感じる自らの気持ちと向き合う手立てとなれば幸いである。