京都芸術大学 アートプロデュース学科

2018年度 奨励賞

がんじがらめのマリオネットからの解放

──TV番組『山田孝之の東京都北区赤羽』(2015年)からみるオリエンタリズム的自分探しとその終焉──

平下 弥優さん

📝要旨📝

山田孝之(1983年-)という俳優がいる。山田は15歳のときにドラマ『サイコメトラーEIJI2』(1999年)で俳優デビューを果たした。山田は、様々な性格の役柄を演じる俳優として有名であり、『ユリイカ8月臨時増刊号 総特集∞山田孝之』(第49巻第12号、青土社、2017年)では山田孝之の総特集も組まれている。そのなかで社会学者、太田省一は論文「山田孝之容疑者(33)、住所不定、多職。――それでもリアルを求める人」において、山田を以下のように評している。

山田孝之は、どんな役柄にもなりきる憑依型の俳優として高く評価されてきた。確かに彼は、普通の学生役はもとより、消防士、不良、武士、闇金業者、さらにはゲームの勇者、果ては星役までこなしてしまう演技の幅の広さがある。「カメレオン俳優」と呼ばれるゆえんである(p. 59)。

しかし、どんな役柄にもなりきる「カメレオン俳優」の山田は、テレビ東京にて2015年1月から2015年3月まで放送されたTV番組『山田孝之の東京都北区赤羽(以下『ドラマ赤羽』)』(2015年)で、自身の演技を見失うことになる。本作は、自らの演技を見失った山田が、好んで読んでいた清野とおるの実録漫画『ウヒョッ!東京都北区赤羽(全5巻)』(双葉社、2013-2016年)(以下『マンガ赤羽』)をきっかけとして赤羽に行き、最後に赤羽の住民とともに『桃太郎』の演劇を行うという物語である。

本作について社会学者、藤田真文は論文「『北区赤羽』と『カンヌ』――達成なき成長物語――」(『ユリイカ8月臨時増刊号 総特集∞山田孝之』第49巻第12号、青土社、2017年)のなかで本作を自分探しの成長物語であると指摘し、以下のように述べている。

『北区赤羽』は、山田孝之が「ありのまま生きている」赤羽の人々と日々接することで、「山田孝之という軸」を獲得する成長物語のはずだった。しかし『北区赤羽』で山田が作り、演じた『桃太郎』のセリフ「己の軸、人間らしさ、そんな言葉に惑わされていた」からわかるように、結局『北区赤羽』は、最初に設定した「山田孝之という軸を作る」という目標が空疎だったことを認めて終わる。『北区赤羽』では、成長物語が破綻している(pp. 65-66)。

藤田の言うように、本作は軸を持たない山田の自分探しを試みる物語である。しかし「自分探し」は破綻したのだろうか。というのも、『桃太郎』で山田は公演後、何かを見出したように今までにない笑みをみせるからである。さらに、山田はそこに住むといった予定を変更し、たった数週間で赤羽を去る。このことを鑑みるのであれば、山田の自分探しが破綻したというだけでは十分ではない。

本論の目的は、『ドラマ赤羽』において山田の自分探しは破綻しているのか、最後に山田は何をみつけたのかを明らかにすることである。このことを明らかにするため、第一章では『ドラマ赤羽』が、山田が『マンガ赤羽』に登場する「赤羽の住人」という自分と異なる生き方をする「他者」に会いに行き、新たな自己を確立しようとする物語であるということを確認する。第二章では、西洋と東洋という異なる文化を持つ2つの関係から、「自己」と「他者」について論じた哲学者エドワード・サイード(Edward Said, 1935-2003)の著書『オリエンタリズム』(平凡社、1993年)を参照し、西洋が自己を立ち現すために、テクストで抱いたイメージを「オリエント」という他者に投影し、それを鏡として利用していたという「テクスチュアルな姿勢」を確認する。そのことを踏まえ第三章では『ドラマ赤羽』における山田の自分探しの試みが、『マンガ赤羽』で抱いたイメージを「赤羽」という他者に投影し、それを鏡として自己を確立しようとするものであることを明らかにするとともに、しかし、その試みが赤羽の住人であるジョージさんによって看破され、破綻を強いられていることを明らかにする。そして第四章では劇中劇の『桃太郎』が、赤羽の住民を鏡として自己の確立という試みとその破綻を俯瞰する山田が、プロデューサー兼役者として、みつかると信じていた「新たな自己」を虚構として斬り、「自分探し」の不毛さを物語っているものであることを明らかにする。終章では赤羽を去った山田が、プロデューサーという自己を獲得し、『ドラマ赤羽』の続編であるTV番組『山田孝之のカンヌ映画祭』(2017年)で映画を作り、その帰結として山田自身を作品にした映画『山田孝之3D』(2017年)を発表すること、『ドラマ赤羽』での生活を経て、自身を変化させる力を得た山田は本物のカメレオン俳優として様々な姿を演じていくことを確認する。最後に、本論を踏まえ山田が物語る不毛な自分探しにならないためには、今ここに存在する自身を認識し、なりたい存在へと自身を変化させる力を得ることが必要であると主張する。