京都芸術大学 アートプロデュース学科

2017年度 学長賞

思惑と導きの果てに

──喧噪社会から戦時体制下へと移りゆく世で若人を誘う能──

中原 桜子さん

📝要旨📝

観世流能楽師の山本博之(本名:重三郎1895-1973)は、公益財団法人山本能楽堂の創設者であり、生涯をかけて能の普及に尽力した人物である。筆者は山本能楽堂で、平成27(2015)年から平成29(2017)年にかけて、[01] 山本能楽堂資料・アーカイブプロジェクトに携わった。その内容は、長年にわたって山本能楽堂に蓄積された様々な資料をアーカイブとして整理、保存し、今後の研究資料として後世に残すというものであった。現存する資料は、演目の番組表、舞台写真、新聞記事、音響資料、能楽関連の雑誌など、極めて多様であり、その数は約三千点にものぼる。この膨大な資料の中から、筆者は学生能の存在を知った。山本博之の生涯を綴った書籍『ひろゆきしのぶ草』(私版、1973年)によると、「昭和5年 能楽同志会結成。大阪朝日会館にて、春秋に学生鑑賞能、ときに教育家招待能を催し、同人の研究会として、能一番ずつを毎木曜朝、全員揃い稽古をつづける(中略)会は十八年五月までつづける」とある。能楽同志会とは、能楽を普及させるために、山本博之を含む九名の能楽師たちによって結成された組織のことである。この能楽同志会による学生能が開催されていたこと、ならびにその内容は、山本能楽堂アーカイブ内の資料からうかがい知ることができる。そうした資料は次の三種類に分類することができる。①学生能で上演された演目とその解説、時に「序言」が記載された「番組表」。②学生一人一人に配布されたと考えられる、演目の解説および「序言」が記載された冊子状の能楽テキスト三点。③能楽同志会が学生能を開催するにあたって、その目的や会の決まりを記した能楽同志会会則書(1931年)一点。これらの資料を読み解いていくと、能楽同志会による学生能とは、対象者を学生に限定した能楽鑑賞会のことで、1930(昭和5)年から1943(昭和18)年にかけて、合計二十五回開催されていたことがわかる。また、「番組表」である「第六回学生鑑賞能楽」(1932年)には、第一回から第五回までの学生能入場者記録が記載されており、この資料によると、毎回の参加学生は二千名を超えていることがわかる。

開催回数、参加学生数ともに充実していた学生能ではあるが、管見の限りこれまでその詳細は十分に議論されてこなかった。その一方で、学生能と同時期の近代能楽について論じた先行研究は多く存在する。例えば、中村雅之「戦時体制下における天皇制の変容」(『能と狂言2』能楽学会編集、2004年)では、1934(昭和9)年に「蝉丸」、1939(昭和14)年には「大原御幸」などの演目が、皇室の尊厳を犯す可能性があると判断され、上演禁止となったことについて論じられている。こうした研究からは、当時の能楽、とりわけ演目の選択において、時局の影響を強く受けていたことがわかる。したがって、学生能においても同様の力学が働いていた可能性は高い。

本稿の課題は次の二つである。一つ目は、学生能がどのようなものであったのか、その詳細を明らかにすること、二つ目は、なぜ能楽同志会が学生能を開催したのか、その思惑を明らかにすることである。能楽同志会が学生能を初めて開催した1930(昭和5)年、大阪は「大大阪」と呼ばれるほど活気に満ちており、様々な西洋文化が繁茂していた。しかし、その後日本は戦争の道へと突き進んでいく。この目まぐるしく移り変わってゆく時代の中で、能楽同志会は、古典的芸術である能をどのように、そしてなぜ学生に限定して見せようとしたのだろうか。

このような問いに取り組むため、以下のような手続きをとる。第一章では、二十四世観世左近『能楽随想』(1939年)と上田英子『点を線にしたい』(1988年)を手がかりにして、当時あらゆる都市で開催されていた学生能の発祥が、能楽同志会であった可能性を提示する。更に、山本能楽堂に現存する「能楽同志会会則書」(1931年)と「番組表」を考察し、その目的と事業内容、特に男女で演目の差があることについて言及する。学生能の事業内容をより詳細に分析していくため、第二章と第三章では、大大阪時代と戦時体制下の時代の二期に区分し、それぞれについて考察を進めていく。第二章では、大大阪という時代背景を踏まえながら、演目の解説および序言が記載された冊子状の能楽テキスト三点の資料と1930(昭和5)年9月から1937(昭和12)年5月までの「番組表」を男女別に考察し、学生能によって、西洋文化に染まりつつある世の中から若者を遠ざけ、より日本的な精神を養おうとする目的があったことを明らかにする。そして第三章では、「番組表」である「第九年春季 学生能楽鑑賞会(第十七回目)」(1938年)と「第十二年秋季学生能楽鑑賞会(第二十二回目)」(1941年)の二点に記載された「序言」と、その他1937(昭和12)年11月から1943(昭和18)年5月にかけての「番組表」を男女別に考察し、戦時体制へと世の中が移り変わる中で、学生能の目的が忠君愛国の精神を養うことへと変化していくことを明らかにする。すなわち学生能の主催者は、近き将来、学生が国防を担う存在になっていくことを見据えて、天皇陛下に対する忠誠心と国家愛を育もうとしていたことを明らかにする。終章では、移り変わってゆく時代の中で学生能は、大大阪時代には、都市に溢れる西洋的かつ文化的な娯楽物から学生を遠ざけること、戦時体制下の時代には、学生を忠君愛国の精神を養うことを目的としていたことを指摘し、本稿の結論とする。