京都芸術大学 アートプロデュース学科

2017年度 奨励賞&同窓会特別賞

演劇的手法を用いた弱者の権威の見直し

石山浩 美佳さん

📝要旨📝

私たちは、日常の中で複数の役割を使い分けて生きている。その中でも、教師や社員などの固定された社会的役割と、やさしい人、礼儀正しい人など、関係性のなかでつくられる役割の二種類が存在する。

 役割は、場や人などの関係に応じて変化する。筆者は、その関係のなかで生まれたネガティブな役割が固定化し、自分そのもののようにとらえる人々がいるのではないかと考えた。たとえば、ある共同体に属する個人が、周囲との関係性のなかで「仕事ができない人」という役割を持ったとする。この役割は、本来その人が持つアイデンティティを示すものではないが、相互行為を通して共同体に属するすべての人に受け入れられたとき、その共同体における現実として受け入れられることがある。そのとき、個人のなかで役割の固定化が起きるのではないかと筆者は考える。

役割の固定化が起きると、個人はネガティブな役割を自分そのものとして受け入れてしまう。たとえば、、「仕事ができない人」というネガティブな役割を持った個人は、ネガティブな役割に対する批判も、自分自身を批判されたように感じ、その共同体にいることが苦痛になる。そのとき個人は、これらの批判から自分を守るために、周囲から期待される役割に応えない「正当な理由」を得るために、病院で診断を受けたり、引きこもったりする。つまり「病人」や「引きこもり」といった社会的弱者の役割を自己防衛の手段として自らまとってしまうのである。

このような状況が生まれると、周囲は途端に社会的弱者の役割を自らまとった個人に対して、今までに向けていた役割を期待することがためらわれるようになる。これは、ネガティブな役割が弱者の役割に変化した際に、ある種の権威が生じているからではないかと筆者は考える。このとき両者の間に生まれる、弱者に対する特権意識を「弱者の権威」であるとした。

本論では、「自己防衛の手段として弱者の役割をまとう人々」とそれを生み出す環境に注目し、このような人々を生み出さないための環境づくりを、演劇的手法を用いて考えた。

社会心理学者G・H・ミードの相互作用論的役割によれば、私たちは、他者が自身に期待する行為の型(「役割期待」)を理解することで自分が行うべき行為を知っていくとされる。このことから、ネガティブな役割との同一化は、個人だけの問題ではなく、周囲の「ネガティブな役割」という役割期待に、従順に応え続けた結果、生み出されたものであることがわかる。

筆者はそこで、現実を舞台のようにとらえる社会学者E・ゴフマンのドラマツルギーという理論に注目した。「ネガティブな役割」を作り出す環境もまた、一種の舞台だと考えることで、その関係のなかで行われる相互行為を見直すことが可能になると考えたからだ。

ゴフマンは、私たちが意識的であれ無意識的であれ、常に周囲に向けて自己の印象を与えていることを述べた。この印象を周囲や行為主体がどの程度信じているかによって、そのリアリティを共有する人々の現実は作り上げられる。

個人が呈示した「病人」というリアリティに対して、周囲が心配するそぶりを見せる、体調を気遣うなど「病人に対して正しい振る舞い」をするとき、周囲は、呈示されたリアリティをまったく信じている場合と、信じていない場合が考えられる。まったく信じている場合は、彼は本当に苦しんでいて、助けなければならないという思考が働く。一方で、信じていない場合、彼の表出は「病人」という役割演技だと受け取ったうえで、仕方なく彼のリアリティに欺かれているふりをしているといえる。後者の場合、儀礼的にこの場で正しいとされる行為の型を遂行していると考えられ、これは病人の権威がそうさせていると考えることができる。

このことから、個人が社会的弱者の役割をまとったとき、それまでの役割期待が持てなくなるのは、弱者の権威が行為選択に影響を及ぼしているからなのではないかと考えた。

哲学者ミシェル・フーコーによると、現代には「生-権力」といわれる、目に見えない権力が存在しているという。「生-権力」は監視の目によって、身体を通して規律を人々のうちに内在化させ、内側から人々を従わせる力である。私たちは権力を内在化することで、場に応じて正しく振舞うことができるようになるのである。しかし、時にその権力が判断力を奪うこともあると考えられる。私たち自身が本当に考えて判断を行うためには、私たちの判断に介入する権力に対し意識的になることが求められるのではないだろうか。本論では、自発的にいうことをきく人間をつくりだすという点において「生-権力」と権威は類似したものであるととらえた。

権威が私たちの身体に溶け込んでいることを踏まえ、そのように振る舞っている自分自身に目を向けることが必要だと筆者は考えた。そして、私たちを取り巻く権威と向き合い、目の前の他者との関係を探るための手段として、ヤコブ・モレノが創始した「サイコドラマ」と、筆者が体験した演劇WSを参考に新しい演劇的手法を用いたワークショップを提案した。

本論では、「自己防衛の手段として弱者の役割をまとう人々」が、自分自身が身につけている役割を見つめ直すためには、演劇的手法を通して自分自身への洞察を行う必要があると結論付けた。そして参加者と共に創造的体験をすることで、弱者の役割をまとうことを避け、ネガティブな役割を作り出す関係を見直すことが可能になる。

この即興劇を用いた演劇的手法には、必ず長期的な他者との協力関係が必要になる。個人や環境について、その場にかかわるすべての人々がともに考えていけるような環境づくりをどのように実践していくかが、今後の課題となるのではないだろうかと考える。