京都芸術大学 アートプロデュース学科

2016年度 学長賞

〈私〉と〈他者〉が出会う美術館

──公的空間の捉えなおしから──

三重野 優希さん

📝要旨📝

美術館で作品を見るとき、「正解」を探そうとしてしまうことはないだろうか。作者の意図は、正しい見方は…など。しかし、作者にそれを聞くことはできないし、例えできたとしてもそれで「わかった」ことにはならない。なぜなら、作品の見方は見る人の数だけあり、作者の見方もそのひとつにすぎないからだ。それでも私たちは、その作品を選び展示した美術館ならば「正解」を知っているのではないかと思ってしまう。時に彼らが書いた解説を、作品をみるより長い時間をかけて読んでしまうこともある。しかしなぜ美術館が「正解」を持っていると思ってしまうのだろうか。

その要因のひとつに、公共施設である美術館に権威があると思っている点が挙げられる。殿堂や神殿風にデザインされた荘重で非日常的な空間である美術館を「上」、それを眺める来館者を「下」と捉えてしまうと、そこに上意下達の意識が生まれる。日本では、より大きなものを「公」、より小さいものを「私」と定義してきた結果、現在に至るまで、天皇や国家を「公」の担い手として捉え、「私」である個人や国民を小さなもとしてきた歴史がある。人々を啓蒙する装置として機能してきた美術館はまさしく「公」であり、それに対して受身であることに慣れてきた私たちは、作品を鑑賞するときにも、美術館に「正解」があると信じてしまうのではないだろうか。こうした上意下達の関係性から抜け出すことはできないものかと考えたことが、本論文を書くきっかけである。

筆者は大学で、複数人と対話をしながら作品を鑑賞するACOP(1) と呼ばれる対話型鑑賞方法と出会った。ACOPでは、〈他者〉と〈私〉がコミュニケーションを介して作品をともに見ることで意味を生成する。これを経験した筆者は、作品を受動的にみていた時よりもはるかに作品を「味わった」と感じた。だとすれば、従来の美術館と鑑賞者の関係から脱却する鍵は、〈他者〉の存在と、彼らとのコミュニケーションにあるのではないか。本論文はこれを仮定として書き進めていく。

(1)ACOP:ArtCommunication Projectの略。京都造形芸術大学アートプロデュース学科が2004年から1年生の必修授業として行っているプロジェクトである。

公共施設である美術館の「公共性」について考察するために、ハンナ・アーレントに着目する。彼女は公共性の成立には他者の存在と、コミュニケーションの必要性が重要だと述べているからだ。

まずは日本の博物館の成り立ちを、西欧のミュージアムと比較しながらみてみよう。古代西欧では、王侯貴族や権力者たちの収集からミュージアムは始まった。その後、限られた人たちにしか開放されていなかったその空間に入る権利を、市民が自ら求め、戦い、その結果として近代型のミュージアムが誕生したのだ。一方日本では、明治以降、国威発揚や国家のプロパガンダのために、国家が主体となり博物館を建設・運営してきた。上意下達の意識が強い日本では、公的施設である博物館の来館者もまた、「上」からのメッセージを受動する地位に甘んじてきたのだ。しかし近年日本の博物館はようやく、来館者を重視した公共施設へと変化し始めている。

公共施設の「公共性」に関して、ユルゲン・ハーバーマスは、人々が一つの合意、「わかった」へと向かうことが重要だと述べている。しかし、それでは思考はひとつになり、やがて停止する恐れがある。一方アーレントは、共役不可能であること、つまり差異があり、「わからない」からこそ、〈私〉とは異なる〈他者〉が現れるのだと述べる。現れるためには、〈私〉と〈他者〉を介在させる「共通世界」が必要だ。「現われの空間」と「共通世界」、二つの空間では自分とは全く異なる他者に関心を持ち、対話をし続けることで「意味」を生む。絶対的な「真理」を探し求めるのではなく、「意味」を生成するこの空間こそが「公的空間」であるとアーレントは述べる。

美術館が、アーレントが定義する「公的空間」になるための一つの方法として、本論文では対話型鑑賞を提唱し、ACOPを一年間経験した学生のレポートを分析した。その結果、まずACOPでは〈他者〉と作品をみることで「共通世界」が構築されていることがわかった。次に、異なる価値観を持った〈私〉と〈他者〉が対話を続けることで、互いに興味を持ち反応しあいながら、ひとつの正解に収束するのではなく、ともに作品の意味を生成していることも立証された。よって、ACOPは美術館と来館者が上意下達の関係性を脱し、より「公的空間」となるための一手になるのではないかと結論付けた。

「生きた精神」が生き続けなければならないのは、必ず「死んだ文字〔芸術作品〕」の中においてである。そして、「生きた精神」を死状態(デッドネス)から救い出すことができるのは、死んだ文字が、それを進んで蘇らせようとする一つの生命と再び接触するときだけである(2)

(2)ハンナ・アーレント『人間の条件』筑摩書房, 1994, p.26

アーレントの言葉である。作品に再び生命を与えるのは、他でもない、私たち鑑賞者だ。〈私〉と〈他者〉が対話を介して作品に新たな命を吹き込むために設けられた「共通世界」、それが公共施設としての美術館の重要な役割なのではないだろうか。