京都芸術大学 アートプロデュース学科

2016年度 優秀賞

反消費的な引き延ばし消費、反消費的な学び

──わからなさからの出発──

井上 寛太さん

📝要旨📝

日本は戦後の経済成長とともに、1970年代半ばに消費社会になったとされる。思想家の内田樹(1950-)は2009年に著した『下流志向 -学ばない子どもたち、働かない若者たち』で、80年代以後に学校教育を受けた子どもたちが、「自らを消費主体として位置づける」ように育つと述べた。さらに彼は、消費と学びが相反する行動であるために、消費者として育つ子どもたちは学ばないとも主張した。いかにしてそれほどまでに消費は私たちを特徴づけているのか、そもそも消費とはなんなのか。1991年に生まれた私はこうした疑問を抱き、本論文に取りかかった。

人々がブランド品を買い漁ったバブル期の真っ只中、1987年に演劇研究者である山崎正和(1934-)が『柔らかい個人主義の誕生 -消費社会の美学』を出版した。彼は同書で、消費が勢いづき、物に溢れた時代潮流の反動で、次代には人々がひとつひとつのものをじっくりと味わう「引き延ばし消費」が主流になると予測した。私たちは山崎が見据えた次代に生きている。また引き延ばし消費は、バブル期の消費を的確に捉えた思想家ジャン・ボードリヤール(1929-2007)が提唱した「記号消費」と相反する、「反消費」的な行動として論じられている。次代を生きる私たちが学ばない理由が、内田が述べたように、「消費主体としての私」しか存在しないからだとすれば、「反消費」的な「引き延ばし消費」は、私たちの世代にとってなんらかの示唆をもっているのではないだろうか。

山崎は消費を論じるにあたって、ボードリヤールが論じた記号消費を批判した。記号消費とは、人がモノそのものではなく、それが意味する「カワイイ」や「カッコイイ」など、社会的な意味付けを手に入れたいために行う消費行動だ。ボードリヤールは記号消費でモノが「より多く、より早く、よりしばしば」消費されることによって、浪費が生じると述べた。これに対して山崎は、消費が加速するためには生産もまた加速するとし、これでは生産と消費が区別されずひと続きとなり、両者は同じ現象の別名にすぎなくなってしまうと指摘する。さらに彼は、「より多く、より早く、よりしばしば」欲望が満たされすぎると快楽が苦痛に転じるとも述べている。それを避けるために、ものそのものをたんねんに味わう充たされた時間を引き延ばす行動として、引き延ばし消費を唱えたのだ。つまり引き延ばし消費とは、こういった記号消費に反した、「反消費」的行動なのである。

引き延ばし消費では「リズム」が重要だと山崎は唱える。ここで言うリズムとは、行動が周囲と調和されて展開する流れのことを指す。それゆえにリズミカルな行動は、周囲との無数の関係で成り立っており、その過程には複雑な含蓄と多義性が含まれている。しかしそれは、普段の生活で行動を統御していると思われがちな意志と目的の力によって、無自覚のうちに潜んでしまっているのだ。目的達成を重視すると、過程は省みられない。過程を無視するほうが、より効率的だからだ。そのため山崎は、目的を宙づりにして過程にのりだすことの重要性を唱え、引き延ばし消費がリズミカルな行動であるためには、その過程そのものを楽しむゆとりを持つことが大切だと主張した。 

さらに彼は、「他人を必要」とすることも大切だと述べている。なぜだろうか。

行動のリズムを自覚するには、目的を宙づりにすることが重要だとはいえ、無目的では何をすればよいのかわからず戸惑ってしまう。そこで、自らの行動に「それでもいい」と賛同してくれる他人が必要となる。さらに山崎は他人とともになされる行動として、社交における「作法」を挙げる。作法とは、その時と場に調和するように定められた約束事であり、それこそがリズミカルな行動なのである。

引き延ばし消費では、目的がわからないからこそ、作法で過程の一つひとつを丹念に、リズミカルになぞっていく。こうして他人とともにわからなさに身を乗り出すことで、意志と目的に抑圧された行動の多義性や複雑な含蓄が見えてくる。目的化しないからこそ、私たちは予期せず、ものの味わい深さに出会えるのだ。

それでは、内田が論じた消費と学びの相反する関係とはどのようなものなのか。消費者は、ものの価値を熟知したうえで消費する。商品情報を熟知してから、より安く、より価値のある商品を買うのが賢い消費者だからだ。効率的に目的を獲得することしか念頭にないこうした消費者は、それ以外のものを無価値で無意味だとみなす。こうした態度は、わからなさを自覚することでしか成り立たない学びとは相反するものだ。学びとは、ある物事が先立って「わからない」からこそ、それが「わかった」と至る過程によって学びとなるのである。それゆえに、幼少期のうちに消費を経験して、自らを消費主体として位置づけてきた子どもたちは学ばなくなったと内田は述べる。学びとはいわば、「反消費的」なものなのである。

学びと同じく「反消費的」な引き延ばし消費は、目的を宙づりにしてものそのものを味わうプロセスを楽しみ、わからなさから何かを見出す行動であった。引き延ばし消費に臨むとき、消費者はまだものの価値がわからないからこそ、予期せぬものに出会えるのだ。だとすれば、引き延ばし消費には、ネイティブ消費者を学ばなくさせている要因を抑止しうる可能性があるのではないだろうか。

山崎は、引き延ばし消費が次代の主流になると見据えた。それにも関わらず内田が分析したように、次代の子どもたちは引き延ばし消費と相反する消費的態度をとっている。だからこそ引き延ばし消費には、私たちが学びを続けるための、示唆深い助言が含まれているのではないだろうか。