2025年度 優秀賞
「演じられる暴力」を問い直す
SMとサイコドラマが揺らす逸脱と治療の境界線
- 入吉 瑠智亜さん
- 蔭山ゼミ
📝要旨📝
SMプレイやサイコドラマと聞くと、多くの人は「自分とは関係のない、特別な世界の話」だと感じるかもしれない。しかし、そこで行われていることは、私たちの日常から切り離されたものではない。本論文は、その距離感そのものに疑問を投げかけるところから始まる。
私たちは日常のなかで、状況や相手に応じて振る舞いを調整し、さまざまな役割を引き受けながら生きている。職場、家庭、恋人や友人との関係のなかで、強さや弱さ、期待される態度やジェンダーのあり方は、場面ごとに微妙に変化している。それにもかかわらず、こうした振る舞いは次第に「演じているもの」としてではなく、「自分の性格」や「自然なあり方」として内面化されていく。繰り返し演じられる振る舞いは、やがて選択ではなく、本質のように理解される。本論文が問い直すのは、こうして自然化された振る舞いや関係が、いかにして暴力やケア、治療や逸脱として名指されてきたのかという点である。
近代の医学や社会学、精神分析の多くは、女性が研究者として参加することが難しかった時代に形成されてきた。そのなかで、女性の身体や欲望は当事者ではない立場から定義され、「女性とはこのような存在である」という像が学術的にも社会的にも固定されていった。マゾヒズムがかつて「女性の本質」として医学的に捉えられてきたことは、その一例である。その後、女性自身が自らの経験や欲望を語り直すようになり、ジェンダーやセクシュアリティは、生まれつき備わった性質ではなく、関係や振る舞いの反復によって形づくられてきたものとして捉え直されていく。こうした視点は、「本質」とされてきたものに疑問を差し挟む契機を与えた。
それにもかかわらず現在、性暴力や性的搾取の構造が十分に検討されないまま、同性愛やトランスジェンダー、よりラディカルな性のあり方がことさら危険なもの、理解しがたいものとしてタブー視される場面は少なくない。その背景には、男性優位社会のなかで形成されてきた家父長制的価値観が、かたちを変えながら温存されている現実がある。特定の振る舞いや欲望が「本質」として名指されること自体が、社会的な力関係のなかで作られてきた結果なのである。
演じていることが見えなくなると、違和感や苦しさが生じても、それを個人の問題として引き受けてしまい、関係や構造を問い直すことが難しくなる。ジェンダーもまた、その典型である。男らしさや女らしさ、能動性や受動性は関係のなかで形成されてきたにもかかわらず、変えられないものとして扱われがちだ。本論文は、こうした振る舞いが「演じられてきたもの」であるという前提に立ち返り、そのことをあらためて自覚するための視点を提示する。
その手がかりとして、本論文はSMとサイコドラマという二つの実践に注目する。サイコドラマとは、個人が抱える葛藤や人間関係を役割として演じ直すことで、固定されていた関係や自己理解を捉え直そうとする実践であり、心理的回復に寄与するとされて「治療」として制度的に承認されてきた。一方、SMもまた、支配や服従といった役割を意図的に引き受け、誇張された関係を演じる実践である。両者に共通しているのは、役割や関係性があらかじめ設定され、「演じている」という了解のもとで実践が行われる点である。この前提があるからこそ、支配や服従、能動や受動といった関係は、現実そのものとしてではなく、距離を伴ったかたちで経験される。しかし本論文は、こうした共通性を理由に、SMを治療として正当化しようとするものではない。むしろ問題となるのは、サイコドラマが「治療」として承認され、SMが「逸脱」として排除されてきたこと自体が、どのような価値判断と権力構造に支えられてきたのかという点である。「治療」という語は、実践に善性や正当性を付与し、疑問を差し挟みにくくする権威として機能してきた側面を持つ。善悪や正しさの判断が、制度や言葉によってあらかじめ振り分けられてきた可能性は見過ごせない。本論文が示そうとするのは、すべてを相対化する態度ではない。暴力や搾取、同意が成立しない状況が存在すること、その限界を無視することはできない。しかし同時に、治療/逸脱、ケア/暴力といった区分が、あまりにも一つの形に固定されてきたのではないかという問いも残る。
疑い続けながら演じることによって、はじめて見えてくる関係や、変わりうる振る舞いがある。本論文は、SMとサイコドラマという二つの実践を比較することで、私たち自身の生のあり方を、一段メタな視点から捉え直すための試みである。


