京都芸術大学 アートプロデュース学科

2025年度 同窓会特別賞

「見られる身体」から「語る身体」へ

日中フェミニズム・アートと京都での展覧会企画を通じた身体経験の再解釈

WANG WENJUANさん
蔭山ゼミ

📝要旨📝

近年中国社会で注目を集めた「上野ブーム」を出発点とし、制度上は「男女平等」が掲げられているにもかかわらず、女性の身体が日常生活や視覚文化のなかでなお「見られ、評価され、管理される対象」として位置づけられ続けている現状に着目する。学校教育や労働、家族規範に加えて、美容広告やSNSにおける「変身」「垢抜け」といった言説は、一見自己啓発のようでありながら、女性に「常にアップデートされる身体」を要請し、身体規範を消費のロジックと結びつけて強化している。こうした背景を踏まえ、本研究は、他者のまなざしと資本主義的欲望にさらされる条件下で、女性の身体はいかに主体性を回復しうるのか、またその可能性はいかに越境的な連帯へと接続されうるのか、という問いを設定する。

 第1章では、上野千鶴子の議論が中国で広く受容された背景を整理しつつ、筆者自身の経験も交えながら、「文書上の平等」と「経験としての不平等」のギャップを問題化した。日中両国は法制度上ジェンダー平等を目標として掲げる一方、世界経済フォーラムのジェンダー・ギャップ指数などからも、平等の達成が十分でない現状が示される。また、上野が指摘するように、日本では「男女平等」が「男女共同参画」という曖昧な言葉に置き換えられ、女性政策が希薄化しうることも重要な論点である。これらを踏まえ、日中の制度や文化の差異を前提としながらも、女性身体をめぐる規範が驚くほど共通している点を明らかにした。

 第2章では、理論枠組みとしてフェミニスト現象学を採用し、身体を単なる生物学的実体ではなく、世界を知覚し空間に関与する媒介として捉え直す。ボーヴォワールの「女性はつくられる」という議論、およびヤングの「女の子のように投げる」に代表される分析を参照し、父権制的なまなざしが女性の行為・空間経験・身体感覚へと内面化され、自己客体化として作動する過程を検討する。同時に、フェミニスト現象学が示すように、身体経験は完全に奪われるのではなく、感知の向きを転換することによって主体性の再構築が開かれうる、という視点を本研究の基盤に据える。すなわち、ミクロな身体経験の記述から社会構造を捉え直す理論的有効性と、その先にある実践可能性を確認する。

 第3章では、日中のフェミニズム・アート実践として、日本のフェミニスト社会派アート集団「明日少女隊」と、中国のフェミニスト・アート集団「禿頭戈女(Bald Girls)」を比較分析した。明日少女隊はマスクによる匿名化を通じて「顔」への消費的まなざしを遮断し、抑圧的状況下でも発声を可能にする。一方、禿頭戈女は剃髪などの身体変容によって女性の美的規範を正面から破壊し、「女性の身体はいかに見られるべきか」という規範そのものを揺さぶる。分析の結果、両者は社会的条件や表現様式こそ異なるが、身体の可視性を戦略的に操作することで支配的なまなざしを攪乱し、「見られる身体」を「語る主体」へと反転させようとする点で共通していることが明らかになった。他方で、匿名化が発言の自由を生む一方で現実生活への配慮を前提にしていること、剃髪のような直接的実践が中国では公共空間の管理や政治性判断によって阻まれやすく、活動が断続的・国外志向になりやすいことから、主体化の試みが直面する「条件」そのものも可視化された。

 第4章では、筆者自身の実践として、京都のフェミニスト書店Kaninおよび京都わかくさねっとカフェでのフィールドワークを基盤に、展覧会「1/fゆらぎの声:身体と空間を揺らしながら語る」(図1)(2025年7月26日-31日)を企画と開催し、展示に加えて交流会・トークイベント(図2)、さらに何殷震のテクスト「女子解放問題」を題材とする朗読会(図3)を実施した。ここでは、対立や結論を急ぐのではなく、揺らぎや言葉にならない違和感を抱えたまま「安心して語れる場」を生成することを重視し、来場者が作品を媒介に自らの身体経験を語り、聴き合い、応答のなかで再解釈していくプロセスを自己省察的に記述・分析した。とりわけ中国人と日本人来場者の発言では「自分には一人孤独ではない」という言葉が何回聞いた上で、私的な気持ちが対話空間において共有可能な経験へと変容し、国籍や背景を越えた共鳴が生成されていたことが示された。また会期後にも、参加者自分で語りの場の立ち上げなど、展示が関係性の継続へつながる動きが確認された。

 以上より本研究は、女性の主体性が「強さ」や権力の獲得によってのみ成立するのではなく、身体の脆さや揺らぎ、不確かさを肯定し、それらを語り合える「場」を生成することによっても立ち上がりうることを示した。フェミニスト現象学の視点から日中フェミニズム・アートと京都での企画実践を横断的に検討することで、「見られる身体」から「語る身体」へという転換が、身体経験の再解釈と関係性の生成として実現されうる可能性を、東アジアの具体的文脈において提示するものである。

図1

図2

図3