京都芸術大学 アートプロデュース学科

2020年度 学長賞

怖くて素敵な〈魔女〉

──1925年代における〈魔女〉イメージの転換──

山本 睦月さん

📝要旨📝

現在、日本で制作される童話や小説、テレビや映画には〈魔女〉が溢れている。読者の中には、幼少期にテレビで『おジャ魔女どれみ』(1966-1968、NET)を見て、彼女たちの服装を真似た人も多いだろう。少し遡れば、テレビ・アニメ『魔法使いサリー』(1999-2000、ABC、テレビ朝日)の真似っこをした人もいるかもしれない。あるいは、自由に空を飛び回るキキの姿を思い起こす人も少なくはないはずだ。彼女らの快活な姿や成長譚には多くの人が〈憧れ〉を抱く。しかし、〈魔女〉とは〈憧れ〉を抱くような存在だっただろうか。例えば昔話に登場するような〈魔女〉は、主人公を襲うしわくちゃの怖いお婆さんだった。そもそも〈魔女〉とは、「悪魔のような女」であり、「悪魔との交際によってキリスト教世界の破壊を図る」忌むべき存在であったことはいうまでもない。

では一体、いつから、現在のように人々が〈憧れ〉を抱くような〈魔女〉が登場したのだろうか。先行研究を紐解けば、その画期は1960年代頃だとされる。例えば、社会学者である新雅史は著書『「東洋の魔女」論』(株式会社イースト・プレス、2013年)において、1964年に東京五輪の女子バレーボールにて金メダルを獲得した日本女子バレー選手団、通称「東洋の魔女」に、メディアとジェンダーの関係性を研究する須川亜希子は著書『少女と魔法──ガールヒーローはいかに受容されたのか』(NTT出版株式会社、2013年)において、1966年に日本で吹き替え放映されたアメリカのホームコメディー・ドラマ『奥さまは魔女(Bewitched)』に登場するサマンサと同年に制作・放映されたアニメ『魔法使いサリー』の主人公サリーに、その画期を見いだしている。このように、従来の研究では人々が〈憧れ〉を抱く〈魔女〉が誕生したきっかけは1960年代だとされている。果たして本当にそうなのだろうか。

本論は、従来の研究の見解を改めて問い直すことを目的とする。すなわち、国立国会図書館デジタルコレクションと朝日新聞記事検索サービス内の朝日新聞縮刷版を用いて、閲覧可能な小説や新聞記事などの文献を、西洋から日本に〈魔女〉の概念が輸入された明治初期から時代を追って丹念に読み解いていくことで、いつの頃から〈畏怖〉だけではない、〈憧れ〉の対象としての〈魔女〉が登場したのか、またなぜ登場したのかを明らかにすることである。

そのために、第一章では先行研究を参照し、1960年代に社会的弱者の立場に置かれていた女性たちにとって〈魔女〉が模範や〈憧れ〉の対象であったこと、また西洋中近世において〈魔女〉が〈畏怖〉の対象であったこと、明治初期に日本に輸入された〈魔女〉もまたフィクションの中で〈畏怖〉の対象であったことを確認する。第二章では、文献資料を渉猟し時代を追って読み解いていくことで、1920年代に翻訳ではなく日本人の手による小説の中で同時代の身近な女性として〈魔女〉が描かれ始めること、さらに新聞記事において現実の女性が〈魔女〉と呼ばれていることを明らかにする。第三章では、第二章において言及した新聞記事、すなわち1925年2月20日付、1925年5月9日付、1925年10月20日付の『朝日新聞』(朝日新聞社)と1925年2月20日付の『都新聞』(中日新聞社)に掲載された計4件の記事中において〈魔女〉と記述された3人の女性について仔細に分析し、彼女たちがハイカラな生活を送る職業婦人といった、当時の先端的な女性であり、かつ異性を誘惑するような女性であったことを明らかにする。第四章では、新聞記事において〈魔女〉と呼ばれた彼女たちは、近代化と西洋化が進む当時の社会状況の中で、西洋的であるために、その新奇性から不気味と恐れられつつも、同時に〈憧れ〉の対象でもあったことを、当時の『讀賣新聞』(讀賣新聞社)や『都新聞』といった新聞記事や出版物などから明らかにする。こうした議論を踏まえて終章では、1925年代頃から、〈畏怖〉の対象であった西洋由来の〈魔女〉が、〈憧れ〉の対象となりつつあったこと、その理由は、当時最先端であった西洋文化を積極的に取り入れた「新しい女性」に対して〈魔女〉の呼称が用いられており、その存在は新奇性ゆえに忌むべき対象であると同時に羨望の対象でもあったためだと結論付ける。言い換えるのであれば、1925年頃に生じた〈魔女〉への〈憧れ〉は、1960年代に西洋人と対等に戦った「東洋の魔女」や、西洋風の生活を送るサマンサ、サリーへの〈憧れ〉の原点なのである。