京都芸術大学 アートプロデュース学科

2021年度 優秀賞

異郷の地で生きられた建物

──カトリック宮津教会の成立と変遷──

城戸愛莉さん
林田ゼミ

📝要旨📝

京都の北部、丹後地方の宮津市にカトリック宮津教会(洗者聖ヨハネ天主堂)が建っている。1896年に建てられたこの木造教会には、今も信者が集う。本教会はパリ外国宣教会より派遣され、1885年12月21日に来日した宣教師、ルイ・ルラーブ神父(Luis Relave, 1857-c.1941)が創立した。これは、国内に現存する木造教会としては長崎の大浦天主堂に次いで二番目に古く、現役の木造教会としては国内最古のものであり、さらに2019年には京都府指定文化財に指定されている。そのファサードには、ロマネスク様式の半円形アーチがあしらわれているものの、屋根は瓦葺きで鬼瓦まで設えられている。西洋の教会建築は堅牢な石組みで作られるのが一般的であるが、本教会の床、柱、天井は木造で作られており、さらに床には畳も敷かれている。その点においてカトリック宮津教会は正統なカトリック教会とはいささか趣を異にしている。

 こうした趣の違いに対して、亀田博和は『教会のある風景』(東京経済、2000年)において「和洋折衷のロマネスク様式」と評している。同様にカトリック宮津教会のパンフレットもまた「和洋折衷のロマネスク式」と教会を記述している。たしかにカトリック宮津教会はオーセンティックな西洋のカトリック教会に対して「和洋折衷」という様式的な特徴を持っている。しかし、本論では、カトリック宮津教会における混交的な様式に注目して事足れりとするのではなく、そのような形式を採用せざるを得なかった事情を鑑みつつ、信者や宮津の人々に「生きられた場所」としてこの教会について論じていきたい 。「生きられた場所」は、批評家の多木浩二(1928-2011)が『生きられた家――経験と象徴』(青土社、1984年)において、そこに住む人の行為が織り込まれている時空間を生きられた家と称したことを参照している。言い換えるのであれば、本論の目的とはカトリック宮津教会をヴァナキュラー建築として論じることにある。ヴァナキュラー建築とは、B・ルドフスキーが『建築家なしの建築』(渡辺武信、鹿島出版会、1984年)で提唱した概念である。それは、「建築史の正系から外れていた建築」であり、無名の工匠たちが様々な地方で、地方の建材を使い、建物を自然の環境に適応させていった土着的な建築のことをいう。そのような視点に立つことによって初めて、このカトリック宮津教会を単なる和洋折衷の建築としてではなく、信者や宮津の人々に「生きられた教会」として、論じることができるのであり、125年間取り壊されずに建ち続けてきたことの理由を明らかにできるのだ。

 本稿の課題は、カトリック宮津教会をヴァナキュラー建築として論じ、何故このような造りで建てられたのか、何故125年間取り壊されずに建ち続けているのか、その詳細をカトリック宮津教会設計者の布教戦略と宮津の人々のカトリック宮津教会に対する思いの変遷を辿りながら明らかにすることである。

 この問いに取り組むため、以下のような手続きを取る。カトリック宮津教会をヴァナキュラー建築として論じるため、第一章では、カトリック宮津教会見学時(2020年10月4日)の写真、カトリック宮津教会のパンフレット、京都暁星高等学校の玉手幸子先生への取材(2020年)、宮津市史編さん委員会『宮津市史』第5巻(宮津市役所、1994年)を頼りに、創建当初、1927年改修時のカトリック宮津教会の造りが西洋に建つ正統な教会建築とは、天主堂の文字、畳敷き、屋根瓦、家紋の印、木造、天井の造り、逆さ柱という点において異なることを明らかにする。第二章では、上記の資料と赤野伊之助『ルイ・ルラーブ神父の生涯』(聖母の騎士社、1966)、パリ外国宣教会日本管区本部への取材(2020年10月8日)を頼りに、第一章で述べたような違いが生まれた理由は、異教を布教させようとした設計者の、宮津のもので建てるという設計方針、明治時代の日本に建てられた他の天主堂とその天主堂設計者である先輩神父の影響、宮津という土地ならではの建築材料・船大工の施工だったからだということを明らかにする。第三章では、上記の資料と宣教百周年記念誌編集委員会『一粒の麦:ルイ・ルラーブ師来津宣教百周年記念誌1989』(カトリック宮津教会、1989年)、宮津カトリック教会献堂八十周年記念事業実行委員会『天主堂改修募金瓦一枚運動趣意書』(宮津カトリック教会献堂八十周年記念事業実行委員会、1976)を頼りに、教会敷地内の学校や花畑、1927年丹後大震災での神父の活躍により徐々に宮津の人々が教会を受け入れていったこと。そして1976年、京都府、宮津の人々が文化的価値のある建物だと認識し修復され、現在も建ち続けていることを明らかにする。終章では、これまでの議論を踏まえ、カトリック宮津教会は、宮津の材を使用して創建されたものの、宮津の人々に奇異な目で見られる建物であった。しかし、時代を下るにつれて、信者だけでなく、京都府、宮津の人々が文化的価値のある建物とこの教会を価値付け、修復し、建ち続けさせた。そして、設計者亡き後も現在に至るまで、宮津の人々が守り続けるカトリック宮津教会は、宮津の地に土着化した、生き続けていく建物であるとし、本稿の結論とする。