京都芸術大学 アートプロデュース学科

2021年度 同窓会特別賞

第三者が継承することに付加される価値

──東日本大震災を事例に──

瀬戸山友紀さん
伊達ゼミ

📝要旨📝

 2011年3月11日14時46分に東日本大震災が発生した。地震と津波、さらにそれらが火事や原発事故まで引きおこし、大規模な被害をもたらした。「未曾有の事態」といわれ、国内外の多くの人々に衝撃を与えた。この出来事は、多種多様なメディアを介して度々伝えられ、その多くが記録物として残されている。あれから10年が経過した。その間に、東日本大震災を知らない世代も現れ始めている。時間が経つにつれて、確実に当該出来事を体験していない者の数は増え、その記憶は風化していくだろう。本稿は、東日本大震災を事例に、過去に起きた出来事を非体験者が継承する場面に焦点を当て、その意義を見出そうとするものである。
 まず第一章では、論点をより明確にするため、継承の営為を大きく2つに区別した。幾多とある継承の場面における送り手と受け手の立場を整理し、「第一次継承」と「第二次継承」に階層を分けて捉えた。「第一次継承」とは、震災後多少なりとも生活に支障を被り、それによって傷や困難さを抱える「被災者」から、震災後の生活に支障を受けていない「非被災者」へと行われる継承を示す。一方、「第二次継承」とは、第一次継承では受け手側だった非被災者が送り手側に位置し、同じく非被災者へと行う継承を指す。このとき、送り手となるのは震災をなんらかの媒体を通じて記憶した者であること、震災について見聞を深めて自分にとっての「東日本大震災」を再編成した者であることを条件とした。そして受け手には、震災に関する記憶を全く保有していない、もしくは送り手に比べて出来事に関する認識が薄い者を位置付ける。本稿で論じる継承はこの第二次継承である。
 第二章では、実践に基づいた先行研究を参照し、第二次継承が伴うリスクや難しさを取り上げた。ここでは、過去の出来事を一側面から捉えることを避けるべく、記憶を媒介するメディアを一つに絞らず、かつ東日本大震災だけに限定せず幅広い実践を参照した。
 一つ目に、阪神淡路大震災に関する資料を収集し展示している災害ミュージアムの実践を取り上げた。資料の選択を通して震災を表象するということは、震災に関するある側面を捨象することでもあるという両義性を伴っている。災害ミュージアムでは、展示を通して震災がどのようなものであったかを表し来場者に伝えている。しかし、そのとき同時に排除される情報が存在する。つまり、受け手に与える情報を操作するという危うさを孕んでいるのだ。
 続いて、二つ目は東日本大震災後のマス・メディアの事例について取り上げた。発災直後、報道やSNSを通して東日本大震災に関する大量の情報があふれた。報道によって切り取られた一部の情報や口々に発信される東日本大震災にまつわる情報が飛躍し、もはや実際の被災地の現場とは乖離した誰にも当てはまらない被災者像をつくりあげた。
 三つ目に、非被災者の作家たちが東日本大震災を舞台にした文学作品の事例をとりあげ、表現に伴う暴力性を取り上げた。被災者が持つ痛みや困難さを持たない作家たちが東日本大震災を借り物にして小説を書くということは、被災者の痛みを伴った体験を好きに創作するという暴力性を孕んだ行為でもある。非被災者の作家たちは、被災の体験を二次的に表現することの暴力性を背負うことになる。
 これらの実践を分析・考察した先行研究を踏まえて、第二次継承における「送り手」は、難しさや葛藤を抱えることがわかった。加えて非被災者が送り手となる第二次継承では、他者の体験や記憶を扱うという点で倫理的な観点からも注視されている。
 第三章では、筆者の観点と同じく体験者の記憶を非体験者が継承することに注視して論じている岡部美香と笠原一人の見解を参照した。二人の見解を本稿の問いを観点に整理し、第二次継承についての議論を深めようと目指した。
 岡部は、非被災者が被災者の語りを聴くという場面に焦点を当て、被災者の体験や記憶を非被災者が受け取るという営為について考察を述べている。岡部は、被災者が自身の経験や記憶を伝えること、そしてそれを非被災者が理解することは厳密な意味で不可能であると主張する。被災者と非被災者の断絶を認め、「分かりえなさ」を自覚した上で語り—聴くという実践が行われるべきだと考えている。一方、笠原は、非被災者が東日本大震災の記憶を表現することについて論じており、東日本大震災の記憶を被災者だけに委ねることを批判している。両者に共通している点は、出来事を体験した一人一人が持つ固有の記憶が失われることを防ごうとしているところにある。
 本稿では非体験者が当該出来事を継承することの意義を十分に明らかにすることはできなかったが、継承は決して情報の伝達のみが重要なのではないことがわかった。むしろ、厳密な意味での情報の伝達は不可能であるということを前提として行われる営為である。第二次継承の意義についての考察は、東日本大震災に限ったことではない。継承するということは、どのように理解するか、そしてどう伝えるか、という行為である。その過程には難しさやリスクが伴うが、過去の出来事を繰り返し語り聴く過程で新たに表象される多様な記憶が過去の出来事を生かし続けるのである。