京都芸術大学 アートプロデュース学科

2022年度 学長賞

「原爆ドーム」に託される〈個別〉と〈普遍〉

遺産を取り巻く過去の語られ方とその普遍性

舩戸柳子さん
林田ゼミ

📝要旨📝

 1945年8月6日、アメリカの爆撃機エノラ・ゲイが広島上空から人類史上初の原子爆弾リトル・ボーイを投下した。広島県産業奨励館は、爆心地から約120メートルの至近距離で被爆し、爆風と熱線を浴びるも、その距離の近さゆえに完全崩壊を免れた。廃墟と化した旧産業奨励館は戦後、いつからか誰が言うともなく「原爆ドーム」と呼ばれるようになった。原爆ドームは、戦後「見るのも辛い」と取り壊しを望む市民と「忘れるべきではない」と保存を求める市民の間で、長い存廃論争が繰り広げられたが、1966年に広島市議会で永久保存が決定し、その後市民による平和活動が功を奏して1996年には「広島平和記念碑(原爆ドーム)」としてユネスコ世界文化遺産に登録された。この歴史の中で、当初は、人々から背を向けられてきた原爆ドームが世界平和の象徴として世界中から人々を集めるようになるまでにどのような経緯があったのだろうか。
 「原爆ドーム」に関する研究は、これまで絶えず様々な視点からその価値や意義について語られてきたが、その中でもより包括的な議論を展開しているのが頴原澄子『原爆ドーム──物産陳列館から広島平和記念碑へ──』(吉川弘文館、2016年)である。建築学を専門とする頴原は、原爆ドームの前身、広島県物産陳列館として建設された1915年から、1966年の原爆ドームの永久保存決定、1996年の世界遺産登録、そして現在に至るまでの歴史を時系列に沿って記している。頴原は、「原爆投下後は廃墟となりながら、戦争の終結を記念し、平和構築への決意を表するとともに、人類史上はじめて使用された原爆の惨禍を伝えつつ、核兵器廃絶を訴え、死者の慰霊・追悼の意味合いといったさまざまなことを象徴する存在として建ち続け」ている原爆ドームを「多義性を内包し得る存在」としてその求心力を説いている。
 本稿では、「記憶すべきこと」を発信するメモリアルとしての原爆ドームを「多義性」と包括した頴原の研究をさらに一歩前に進めるため、原爆ドームが内包する「多義」を歴史の観点から改めて整理していく。そして、具体的な原爆ドームを対象に普遍的な過去を語るという営みについて考えることは、ローカルとグローバルを掛け合わせて物事を捉えようとする、「グローカル」な実践であることを示す。
 そのためにまず、どのようにして原爆ドームは残されることになったのか、頴原の著書を頼りに、その歴史と時代によって移りゆく語られ方の変遷を辿るところから始める。第一章では、被爆から1966年までに起こった存廃論争を主に扱い、広島の地で語られていた原爆ドームは、メモリアル、つまりあの日起きた悲劇、戦争や原子爆弾の痕跡であるという点が重視されていたことを明らかにする。また、観光地として人を集め得る可能性が見出された所以として原爆ドームのピクチャレスクな性質が大いに関係していたことを示す。第二章では、その後、原爆ドームが世界遺産に登録される1996年までの歴史とその年の世界遺産委員会の決定に着目し、ユネスコによって語られた原爆ドームは、市民による平和活動の象徴、世界平和や核兵器廃絶への希望、最も破壊的な力の象徴など、価値の所在が分散されたことを示す。また、原爆ドームの最終評価書を読み上げる際に世界遺産としての価値を示す一文が省略されていたことや登録名称が変更されたことなどの事実を確認し、ユネスコは、原爆ドームに付随する広島市民の個別的な記憶や悲劇の痕跡を認めつつも、極力焦点をずらし、「顕著な普遍的価値」として世界中の人類に共有できる平和の象徴としての意味合いに焦点を当てていたことを明らかにする。第三章では、ここまで明らかにしてきた歴史の変遷から見える語られ方の傾向について、その整理を試みる。原爆ドームを基点に想起される過去についての語られ方として、メモリアルな痕跡としての語られ方と普遍的な平和の象徴としての語られ方、この大きく二つがあることを明らかにし、これらを二つの極、〈個別〉と〈普遍〉として整理する。そして、この二極はただ離れた対極にあるだけではなく、原爆ドームを基点に想起される過去として、同時に存在し、同時に想起されるものであるということを結論付ける。さらに、このことは、原爆ドームに限った話ではなく、先人たちが残した遺産を取り巻く過去を語ろうとする人類の営みにおいて、まさに普遍的であるとする。終章では、かつてあの日の痕跡として個別的な記憶の想起を促すと同時に、時空間を超えた普遍的な平和の象徴として祈念の依代となる原爆ドームについて筆者の体験を記述し、本稿を結ぶ。