京都芸術大学 アートプロデュース学科

2022年度 奨励賞

二郎は飛行機の夢をみる

「生き様の肯定」として読み解く映画『風立ちぬ』

堀川心さん
林田ゼミ

📝要旨📝

 映画『風立ちぬ』は2013年にスタジオジブリによって発表された、宮崎駿(1941年-)監督の長編アニメーション作品である。第二次世界大戦において日本海軍の主戦力となった零式艦上戦闘機、通称零戦の設計家である堀越二郎(1903-1982)をモデルに描く。従来のジブリ作品の作風とは異なり、箒で空を飛ぶことも叶わず、不思議な生き物も非日常も訪れない。時代は大正から昭和に移り変わる頃、貧困に大震災、不景気の最中であった。このような時代を背景に、飛行機設計家として夢を追いかける二郎を中心に描いた本作には、「美しい」という言葉が繰り返し登場する。物語は「夢の王国」と呼ばれる二郎の世界と現実世界を往来しながら展開する。「夢の王国」で出会うイタリアの設計家・カプローニと二郎は、飛行機機と「美しい」という言葉を合言葉に互いの夢を語り合う。おおよそ2時間の上映時間内にこの言葉は15回発せられ、本作の物語は主人公・二郎の「美」への思いによって、結核を患う二郎の妻・菜穂子をも巻き込みながら展開するのである。
 美学者の津上英輔は著書『危険な美学』(集英社インターナショナル、2019年)にて、美の本質を語る際に、『風立ちぬ』を例に挙げた。津上は「真偽、善悪で判断すべきところを美醜の判断を持ってすることであるが、そこには美が本質的に有する幻惑作用が働く」と主張する。これを踏まえ津上は『風立ちぬ』について「二郎は「美しい飛行機」を追求していたが事実として作っていたのは人々の命を早める戦闘機であった」と指摘する。そしてその問題は、結核を病むも懸命に生きる菜穂子の「生」の美しさの前に隠蔽されていたと語る。津上は作品の「美」に注目し作品の分析を行ったが、議論の目的は美の本質の危険性を主張することであった。そのため津上の注意は〈作品で描かれていること〉よりも〈美によって隠蔽されたこと〉、すなわち〈作品に描かれていないこと〉へと注がれている。もちろん〈作品に描かれていること〉を軸に本作を論じた研究はある。たとえば神話学者の古川のり子は「『魔女の宅急便』『風立ちぬ』からオイディプス神話へ──風を制御して飛ぶことは可能か──」(『死生会学法』24号、2018年)にて、『魔女の宅急便』と『風立ちぬ』両者に共通する「飛行」というモチーフにに焦点を当て、両者を比較する。そして『風立ちぬ』について「文明を築き、破壊しうる力を持つ葛藤こそ『魔女の宅急便』から『風立ちぬ』へ、ひいてはギリシャ神話の頃から引き継がれた、人類の普遍的苦悩そのものを描いた物語である」と結論づけた。こうした古川の議論において菜穂子は、「天空に飛び立ちたい彼を苦しめ大地に縛り付ける「呪縛」」であると位置づけられることとなる。ただし古川は作品の主要となる表現を扱い作品を読み解いているものの、作中「美しい」という言葉が登場することについては触れていない。本論では先行研究を踏まえ、特に二郎の「美しい」という言葉に注目し研究を進める。作家の意思や描かれていないことを想像するのではなく、作品に描かれていることから丹念に考察することによって、『風立ちぬ』がいかなる物語であるのかを明らかにする。
 そのため第一章では物語全体を概観しながら、本作が戦争という社会状況を後景へと抑制し、二郎の飛行機への頓着と菜穂子との関係を強く前景化させていることを確認する。そのうえで、「美しい」あるいはそれに類する「きれい」という言葉が15回用いられること、そのうちの12回が二郎とカプローニによって発話されていることを確認する。そしてカプローニは夢の中に登場する二郎の意識の存在であること、すなわちカプローニの発言もまた二郎の潜在的な意識の表れであることを明らかにする。第二章では、第一章で提示した「美しい」「きれい」という発言の一覧を参考にしながら、二郎=カプローニによって「美しい」「きれい」という言葉が向けられる対象が飛行機と菜穂子であることを明らかにする。第三章では、第二章を踏まえて「美しい」という言葉が向けられる具体的な対象が、比翼の構造を思わせる鯖の骨や片翼の飛行機であること、すなわち二郎が夢見る「美しい飛行機」の提喩となりうる断片的で不完全なものであることを明らかにする。そしてプラトンのイデア論を参照しながら、二郎の意識は鯖の骨などを通じて「『美しい飛行機』のイデア」に内包される対象に向けられていることを示す。そして終章では、古川によって「呪縛」と位されていた菜穂子の存在があってこそ、二郎は観念的世界にのみ生きるのではなく現世と関わりを保つことができるのだと主張する。飛行機と菜穂子を愛することを同時に描いている本作は、二郎のそのような生き様を「美しい」という言葉で肯定するのである。最後に、そのような人物を内包する作品へと考察の視座を高め二郎に訪れた結末を確認しながら、本作は生き様の「美しさ」をも肯定し、美の追求がはらむ毒と、その結末すらも偽ることなく正直に描いた物語であると結論づける。